6.「陸上競技・マラソン・長距離特集」1999.7.12. 大成高校 第59回研究会

報告者:大成高校、西貝雅裕先生(一部大塚高校武田が加筆)

トピックス 吉田光代さん(大阪体育大学)講演
 コメンテーター:近畿大学、高妻容一。大塚高校陸上部監督、武田

紹介(武田先生より):大阪体育大学卒業。吹田六中出身、当時六中は陸上が盛んで強かった。体大卒業後にダイハツ入社。93年パリ国際マラソン優勝。94年大阪国際女子マラソン、2時間26分26秒。当時の日本最高対記録樹立。長く競技を続け、退社後、大阪体育大学、大学院に入り直し、科学的にランニングを勉強し、現在は体大陸上部長距離コーチ。
 私は昨年2度吉田氏の講演を聴く機会があった。一度は体大で、年1回行われるマラソンセミナー:ランニグを科学的に見たことや、メニューなど専門的な話。練習方法、乳酸値など。ニ度目は、11月に行われた「臨床スポーツ…」、スポーツマンの心と体というテーマで話が行われた。

吉田さんのお話

@陸上をはじめたきっかけ。中学の頃からの話をしてください。

中学の頃から陸上の中長距離、中距離(800m)を始めた。きっかけは、中学の5学年 上級にいた深尾まみさん(85年神戸ユニバーシアード大会優勝など)。中学の時から日本選手権に出場。日本記録を作るなど活躍された。その人が中学にいるということで… 小さいときから体を動かすことが好きで、1時間目から6時間目まで体育だったらいいの になと思っていた。スポーツが好きでスポーツには自信があった。スポーツで目立ちたかった。その深尾さんの走りも小学校の時に、兄のマラソン大会を応援がてら見て、走りに あこがれ、自分もあれくらいの走りができるんだ、活躍できるんだ。中学に入ったら陸上 をやるんだと思って中学に入学をした。ところが両親が心配性で、それだけ強い陸上部なので、練習量がすごい、厳しい。中学生ながら200mを60本、100mを15本など 過酷な練習をしていた。そんな練習をしているので、体をこわすことも多かった。陸上部 に入ると体をこわす人が多いから陸上部にはいったらダメと、両親からがすごく反対を された。陸上部以外ならいいということになり、小さい頃剣道をやっていたので剣道部に 入部。しかし、陸上が好きで、好きで仕方がない。外で剣道部が素振りをしたりしていて も、横目で陸上部を見ては、「いいな--陸上部に入りたいなー」クラブが終わってべランダから外を見ても「いいなーわたしもぐるぐる走り回りたいなー」と思って見ていた。すごく単純な競技だが、陸上部に入りたくて入りたくて仕方がなかった。
 そして両親を説得。なかなか両親は「うん」といわなかった。最終的にそれなら私は勉 強をしないといったところ、両親も困って、それだけ熱意があるのなら陸上部に入れば、 ということになったのだが、剣道部の先生が、「2ケ月くらいで“やめたい”とは何事だ、 そんな短い期間でやめるとは、そんな移り気の早いことでは何事も続かないからやめさせ ない」、といわれた。何回も先生の所に行くが、“ダメ”の一点張り、最終的に母親が先生の所に行き理由を説明(小学校の時から陸上をやりたかったが、親が反対して剣道部に入部させたいきさつ)、剣道部の先生もようやく納得され、それならば陸上部に入りなさいということになり、入ったのが、1学期の終業式の日、はれて陸上部にはいることができた。  過酷な練習だけあって、深尾さんのようには走れなかったが、全国大会で5番の成績を 残せた。中学の時は、800mの競技しかなかったが、長い距離を走るのがすきで、一般 の競技で3000mというのがあり、その時は女子の長距離マラソンなどやっていなかっ た時代で、3000mでもかなりな長距離。中学2年生で、大阪選手権3000mに出て、 近畿大会に進み、日本選手権まで出場。中学2年で3000m、10番になった。
 その時自分は将来マラソン選手になりたい、マラソンを絶対に走るんだと思った。その 時にちようど大阪国際女子マラソンとか東京国際女子マラソンなどが始まって、TVで行 われていた頃で、それを見て私も走れる、こういうのを走ったら強いんだと思っていた。 最終的に、中学の先生に‘おまえは将来マラソンをやれ’といわれたことが頭に残り、「私が勝負するのはマラソンだ」と中学の時から思って、走っていた。

A中学時に、ハードトレーニングをして、高校、大学、実業団と進む中で、バーンアウト しなかった理由、心理状態は?

 高校へも陸上を通じて入学、進学したようなもの。当時一番強い高校に入学したが、練 習は、中学時の1/5くらいの量。高校に入学しても高いレベルで競技をしよう、頑張ろ うと思っていたにもかかわらず、ものすごく練習が物足りない。それならぱ、自分で練習 を組んでプラスαを、今ならぱできるが、その当時はそんな意識すらない、指導者がいっ たとおりの練習しかしない。指導者に練習量を増やして欲しいといっても、指導者は、指 導者の考えがあるので聞き入れてくれない。自分はこんな練習をしていても記録が伸ぴる ことはない、しだいに指導者とのすれ違い。自分でも練習のプラスαはしない。自分でや っていこうという意識がなかった。指導者の元で指導者のいうとおりのTrをこなしてい く、1年、6月の近畿インターハイまではよかった。優勝しましたが、8月の全国インターハイは予選落ちしました。国体にもつれていってもらった。2年の時、大阪インターハイで落ちた。そのころからクラブには行かなかった。自分の走る姿が、動き自体が、自分の中のイメージ(感覚)と、あまりにもずれている。開きに差があった。こんなはずじゃなかった。走ることに対して魅力が、面白みがなくなった。それよりも、帰宅部の人達と一緒に帰り、遊ぶことの方がよっぽど、ずっと楽しかった。1ケ月、2ケ月クラブに行かなかった。そしてさらに走れなくなり、たまにいってもぷらぶらジョグをしている程度だった。走ることに対しておもしろいとも思わなかったし、興味もわかなかった。3年生に なっても同じで、走ることに興味を持てなかった。友達と遊んでいる方が、よっぽど楽し かった。今から考えてみたら、その時にもう少し頑張っておけぱと思ったりするが、その 当時は、私はバーンアウトをしていたのでしようか?これをバーンアウトというのでしよ うか?

高妻先生コメント:バーンアウトしてしまうと、完全に競技をやめてしまうが、一種のバ ーンアウトの状態だったのかもしれないが、それほど問題ではない。 若い人がつぶれていくパターン。特に大学生に多いが。 あるぱいと、かれし、かのじよができる。ギャンブル、パチンコ。中高生の場合は、友人、遊ぴ。友達と遊ぶことは楽しいですから。それに流れ、流されていく。集中できなくなる状態。 バーンアウトは、燃え尽き症候群で、完全にいやになり、やりたくなくなる。完全に競 技をやめてしまう。そこまではいっていない。興味がもてなくなる、集中できなくなる。 心と体のアンバランスがあったのではないか?プラトー、スランプに近いようなものでは ないか?

B普通の選手は、ここでやめてしまうことが多いと思うが、吉田さんは、大体大に進まれ さらに競技を続けるが、その辺の、大学へ入る前後の頃の気持ちを教えて下さい。  

 3年生になって、進路を決めるときになって、何をしようと考えたところ、私には走るこ としかないと思った。走るということはどうしたらいいのか?走る方向に進路を決めたら、 自分が走らないといけない。そこで練習をしなけれぱいけない。高校での練習を一時やめ て、中学に戻り、中学の先生の元で練習を行った。気づいたのが8月だったので、1ケ月 2ケ月ですから、それほどはしれるような、元の状態には戻らなかったが、大学受験は、 過去の実績、インターハイ出場で何とか拾ってもらった。大学に入って、また新しいとこ ろで走れる。新鮮な気持ちでスタートした。とてもうれしく、また新しいところで自分が 走れることがうれしかった。1年の10月には自己記録とまでは行かなかったが、全国大 会優勝メンバーにも入ることができた。

C受験時の3000mのトライアルは、ピリだったと聞くが?  

 4人中4番、自分自身は11分17秒くらいで走ったつもりでいたが、大学の先生に言わ せると「おまえは12分でしか走っていない」といわれる。よく12分で入れたと思う。 競技者レベルでいえぱすごく遅い。1キロ4分べース。

Dまたゼロからスタートできると思いましたか?  

 180度環境が変わり、一から自分が出直せる環境。多くの先輩、多くの人達と、その当 時長距離はすごく人数が少なかったので、15人のメンパーの一因となって、一緒に走る ことがすごくうれしかった。

E中学の先生の印象が強いと思います。その先生がおっしゃった「おまえはマラソンに向いているよ」の一言が印象強かったので?

 ダイハツが、新しくチームを作って、マラソンを始める。ダイハツを選ぱれたときには、国際大会やマラソンをするという明確な目標はあったか?  大学当時はダイハツに入ってどうしようというのはなかった。まず自己記録を更新すると いうのが目標。大学当時3回マラソンを走り、3回とも3時間を切れなかった。3時間3 6秒、3時間2分、3時間3分3回とも3時問を切れずに卒業。目標は自己記録更新とい うことで入社。

F当時ダイハツは、できたぱかりで、監督さんは、科学的に取り組んでいて、その中で、 かなり厳しい減量があったように聞くが? 

 いきなり30分くらい記録を縮めたりしたが、その間の減量や、一種のプロですから、大学時代の4年間と、企業に入ってからの心境の変化、変わり方などは?  意識を変えたのは、これもまた中学の恩師になる。大学4年の冬、ダイハツの合宿に参加。 練習中におなかが痛くなり、トイレに行っていた。ダイハツの監督はそんなことを知らず に、いないものなのでさぼっていると勘違い。私もさぽっているわけではなく、トイレに 行っただけ、練習後、全員が集合してのミーティング、その真ん中で「吉田、おまえは何 をやっているんだ、皆、一生懸命走っているのにさぼりやがって」と怒られた。その監督 とその時で会うのは2回目。一度目は、名前も知らずに会う。2回目でそんなに怒られた ので、その時はダイハツ入社が決まってはいたが、こんな怖い監督の元ではやっていけな いと思い、入社を断ろうと思った。12月ですから、1月、2月と時は進んでいき、いつ 連絡をしよう、やめよう、やめようと考えていた。月日は流れ、入社前(2月頃)、そんな 時に中学の先生に会った。その時に「吉田、おまえはダイハツに入ったら、今までのやってきた陸上競技のことは全部忘れろ。一からダイハツでやれ、今までのことは忘れて、ダイハツ色に染まれ」といわれた。その事をいわれて、はっと気づいた。今までこだわって いたことを、10年間陸上をやってきたことを全て忘れようと思った。中学の先生の教え も忘れようと思った。そして、ダイハツの鈴木監督さんの色に染まろうと思った。今まで 監督に怒られ多イメージがあったが、それも忘れ、ダイハツの監督さんのいうことを1か ら10まで出きるようになって、ダイハツの選手になっていこうと思った。これは自分に とったらすごく大きなウエイトを占めていると思う。これがなく、そのままダイハツに入 っていたら、たぶん1年間持たずにいたのではないか?そういう言葉を中学の先生からい ただき、最終的に7年間やった。ダイハツの“吉田”といわれるような選手になった。

G多くの選手が、中学、高校、大学と進む。環境の変化、監督のやり方の違いとかで順応 できずに、仲びない、やめていく選手も多いと思うが、その辺はどうか?

高妻先生コメント:中学のコーチはすぱらしいコーチだと思います。気持ちの切り替えを スパッとアドバイスしてくれている。 体大など、入学したときは、高校時のトップ(インターハイ優勝など)、優秀な選手が数多 くいるが、どんどんやめていく、スポーツをやめていく。なぜか?自分の背中に高校時の 実績がついている。それでやっていて、大学に入ると高校時のコーチのように一生懸命教 えてはくれない。たとえぱ、しぱかれてきた選手、しぱかれるコーチにつけぱまた伸びる たりするが、しばかれなくなると、全然自分ではやってはいけないなど、どのコーチに、 どのチームに入るかで大きく変わる。いろいろな切り替えがむずかしい。ここで気持ちの 切り替えができたことが大きなポイント。切り替えをしたことは、プラス思考になれたと いうこと。日本のスポーツ選手のたぶん90%以上の伸ぴない理由は、指導者、コーチに対 しての不平不満、マイナス思考です。気持ちの切り替えが、スパッとできたことが、その後 のスポーツ人生に、大きな影響を与えたと思う。

H3時間が切れなかったマラソンが、一気に30分短くなったり、プロ意識や、気持ちの 切り替えなどもあったと思うが、実業団での初マラソンまでの、心境を教えて下さい。

 減量のことは、先程の話のように、私はここでしか走れない、走る場所がないというふう に思っていた。私はダイハツでしか生きてはいけない。そんな気持ちがあった。 その時58kg体重があった。そのモットー”体重減”は監督さんの指導方針のひとつであった。自分もその指導方針の元、体重を落とそう。体重を落として走ろうと思った。 今考えると、1ケ月で6k gくらい落としている。すごくおなかがすいた。ここで生きて 行くしかないし、ここでしか走れない。ここをやめたら、どこも行くところがないという 思いでいた。それほど苦痛ではなかった。1日1日が充実して、自分に言い聞かせるよう にして苦痛はなかったが、気持ちいいものでもなかった。それで1ケ月6kgやせて52 kgになった。その後、とんとん拍子で記録が出た。4月のおわりに、和歌山のリレーカ ーニバル5000mで自己べスト、5月に1万mで、自己ベスト。中学以来、日本選手権 には出ていなかったが、1万mで記録を突破して1万mで日本選手権出場。次々と自分の 記録を伸ぱすことができて、次々と目標が変わる。自分の位置も変わる。今までは、大学 のときは誰かの後ろにいた。チームが優勝するということはあったが、自分が記録を伸ぱ していく、自分個人が今までと違った形で、今まではチーム主体で考えていたが、個人的 に吉田光代の位置が上がっていくというのが的確に見えてくる。記録が伸びたら、この大 会に出て、この大会に出て、またこの大会に出てこんな人とも走れて、こんな人とも勝負 ができて、こんな人とも話が出きる。気がついたら、いつのまにやらこんな所に来ている。 そうすると、次々と目的意識が変わり、目標が変わる。実際30分記録を伸ぱしたときも、 1月ですから入社10ケ月、自分も2時間30分で走れるなどと思っていないから、2時 間30分の記録など、だそうなどと思っていない、ただ、いけるとこまでいってやれとい う思いはあった。ヘたばったら、ヘたぱったとき、と思い、先頭第ニグループヘ、その時、 モタ、という選手が単独でトップを走っていた。そのグループは強い選手の集まり、兵頭 さんや、浅井さんなど名前を知っている人達の中で、名もない吉田が、その選手達の胸を 借りるつもりで、いけるところまでいってやれ、落ちたら、落ちたとき、その時に考えよ うということにして走った。結局2時間30分という自分にとったら大記録。2時間30 分で走ったことによって、目線や意識が変わった。そうなったら日本のトップクラスです。 マラソンの日本のトップクラス。周りの環境が変わる、TV、新聞社。今までの自分には 無関係であったが、自分のまわりに常にというわけではないが、コメントを聞きに来たり、 自分がT Vに映っていたり、そういうことがたまにあった。今までにはなかったので、自 分の位置が、記録を伸ぱすごとに変わり、意識も変わっていく。その時にはまだMTをし ていなかったが、自分が変わっていくのがわかった。

I1月30日が大阪国際女子マラソンだったと思うが、そこからマスコミ攻勢とか、雑誌 に載ったりとか、よくあると思うが、初マラソンの時はよく走れて、その記録が重荷にな ったり、疲労が抜けなくなったりと、スランプとかあると思うがそのあたりは?

 大阪国際で、30分ばしたらいろんな人から、自分が変わった分、浮き足になってしま った。みんなちやほやする、浮き足だった状態。いろんなことをいってくる。今度はどの 大会をねらいますか?とか、どれくらいの記録をねらいますかとか?今度1万mで、春の 大会で、32分30秒くらいで走れますね?などと聞いてくる。お調子者なので、そうで すね32分30秒くらいで走れますねなどといってしまう。これが本当に経験のなさで自分の足元が見えない状態。いざ、練習すると逆に、マラソンの疲れでぜんぜん走れない、 練習するが、走っていても途中で、離れてしまう。思うように体が動かない。練習をさぼ ってしまうとまた走れなくなるんじやないかと思って、“ジョグ”しとけ、といわれると 60分70分くらいの指示がでても、80,90分とちよっとでも多くしたら走れるんじゃ ないかと思い走ってしまう。それが逆にオーバーTrとなり疲れが抜けにくくなり、さら に走れなくなる。 当時、自分がぜんぜん経験無いので、トップの立場で足元が見えない、まわりが騒ぎ立 てる。自分もそれに乗ってしまう、しかし現実はそうでない。このギャップが自分にとっ ては、何でやろう、もっと練習しなければ、という方向に走っていった。長距離はやせた ら走れるという変な考え方があり、それならもっとやせたらいいんじゃないか、もっとや せたら走れるんじゃないか、少し太りすぎじゃないかと思い、食事を減らした。食事を減 らしても走れる状態ではない。だんだん走れなくなる。普通の人並みに食欲のある方で、 それが、走れない、食べられない、我慢しなくてはいけない。それがだんだんとストレス になってくる。食事を我慢する、走れない。今度は逆に多く食べるようになってしまう。 食べてももどすようになる。過食症になる。以前話に聞いたのは、「食べたら、もどしたら いいのよ、もどしてる人がいるのよ」。衝動的にものを食べてしまった。今から考えたら、 それほどの量は食べていない。その当時にしたら、食べてしまった。おなかがいっぱいに なってしまった。これでは太ってしまう。走れない、どうしたらいいんだ。そして、その 話を思い出し、もどそうと思った。 それがきっかけでズルズルいった。はじめはたまに、週に一回であったが、週に2,3 回、毎日、毎食、というふうに変わっていった。そんなこと人に言えない。「私食べてもど しているのよ」など人には言えない。親からは、食べ物は粗未にするなと教えられた。も どすなんて、食ぺ物を粗末にしている。自分自身に罪悪感。人をだましているような感覚、 人に隠れてしていることによって、罪悪感もあった。人に知られるのがいや、人に隠す。 知られたくない、隠す、悪いことをしているのを知られたくない。逆に人前では明るく振 る舞う。そのギャップに苦しむ。“私って気が狂っているよな"と思いだす。誰かに言いた いが、こんなことわかってくれる人などいないから言えない。そんな日が続いた。

イーティングディスオーダー・摂食障害、過食症、拒食症。 急に記録が伸ぴ、体の伸びに心がついていかない状態。心と体のギャヅプが埋まらない。 急な減量、急激な記録の伸び、疲労が抜けない、走れない。一気に強くなると逆に一気に 走れなくなる。心と体のアンバランスが生じることがある。そこから摂食障害に陥る 選手がある。身体の成長に、心の成長をあわせることが大切ではないか。(武田コメント)

J苦しい時期をカウンセラー、マネージャーなど心の支えの元に復活をされたが、そのこ ろの心の支え、目標は?

 力ウンセリングにマネージャーとニ人で行く。自身はカウンセリングを受ける。マネー ジャーもカウンセリングを受けるが、マネージャーは日常の対応の仕方、接し方を学んで いた。その子といる時間が日常すごく長い。気持ちをコントロールすることをしてくれた。 自身より3歳年下。的確にアドバイス、対応をしてくれえた。 一番心がゆるんだなと思うのは、そうなった(イーティングディスオーダー)状況の時 に、「みっちやん、何したい。なにする?」と、問いかけてくれたこと。今まで自身は、そう いう間いかけがなかった。練習でも「今日の練習メニューはこれとこれとこれやから、さ あ、走れ、」のような感じで、走り終わったら、それに対して感想は言ったりするが、自分 から、ああしたい、こうしたい、というのがなかったように思う。ダイハツに行っている、 企業にいる以上は、走らなけれぱならない。走って当たり前だという考え方もあった。自分から、これをやりたい、、あれをやりたい、といってもいいものかと考えたこともなかっ た。そういう言葉は存在しなかった。 「みっちゃん、何したい」という一言を言われたとき、「ホッとしたような気持ち」であっ た。ずっとそんな会話でした。「みっちやんきようは何をしたい、何をする、どうする」 「ちよっとポーとしていたい」「そしたらポーとしとこう」、「散歩行こうかな」「そしたら 散歩行こうか」、そんな会話でした。その時は練習もしなかった。日常生活は漠然と気持ち よく過ごせる方向に持っていってくれるような期閤であった。 摂食障害のことはよく解らないかもしれないが、今から思えぱ、何でそんな症状になっ たのかとは思うが、かなり境地まで迫い込まれていく。過食、摂食だけでなく気持ちの中 で、自分を攻めていく。今はメンタルT rで、前向きにに、前向きに考えましようという ことですが、その時は後ろ向き、後ろ向きに考えてしまう。前向きに考えることなどでき ない。存在しない方がいいんだというように考えてしまったり、追い込まれるのではなく、 自分で追い込んでいく。 その何ケ月は、漠然と生活をする時期だった。気持ちを、自分の心を解きほぐして、次 に進むきっかけを作る時間であった。

武田コメント:大塚高校陸上部駅伝チームは、以前大きなバーンアウトがあった。その時に、 私(監督)は、吉田さんの講演を聴いて大変考えさせられた。走ることの意味、走らせること の意味、コーチとして「走って楽しいという、走る原点」を生徒にいかに伝えられるか。 そのうえで、全国駅伝などの高い目標の中での葛藤にうち勝っていく。

Kパリマラソンに出場、スタートラインに立てるだけでうれしいと言うところから、優勝。 そして一気に大阪国際で2時間26分へと進むが、原点に戻ったあとに復活、そのあたりの話を。

 2年8ケ月かかった。マラソンを走るまでに。よくダイハツは残してくれたと、感謝している。このマラソン(パリマラソン)を見つけてくれたのが2月中旬。日本では名古屋 国際があったが、申し込みを締め切っていた。吉田が走れるようになったから、何かない かと探す。4/26にあるパリマラソンを見つけてくれる。その試合が決まったとき、「絶対優勝しよう」と思った。、感謝の気持ち、恩返しはこれしかないと思っていた。その時、 力的には優勝できるような力はなかった。「気持ちだけは、優勝しようと思っていた」 その時はMTをやっていた。気持ち的にも、イーティングディスオーダーの時は後ろ向き に考えていたが、MTをやり、アメリ力の合宿では、前向きに考えられるようになってい た。毎日MTをやっていた。久しぶりのマラソン練習なので、なかなか進まない。Trす ると疲労がたまって走れない。休まないといけない。選手は練習をしていると安心。休む と不安。その時は、この休みは、私が優勝するために必要な休みだ、だから休もう。ひと つひとつの行動に対して、全て前向きに考えようと努力した。本当に100%の練習が出 きるわけではなく、60〜70%の練習であった。 パリに入って、「優勝するぞ」と決めていたが、心の中は「どきどき」であった。「私ダ メかもしれない〃は怖いから口に出せなかった。気持ちの中では大きな不安があった。ロ には絶対出せなかった。「私は優勝するそ」、“大丈夫かな”などとは恐ろしくて口に出せな かった。 スタートラインに立つ前の送迎バスの中で、涙が出た。うれしくて、久しぶりのマラソ ンで、2年8ケ月の間にまたスタートラインに立てるとは思っていなかった。もう陸上を やめるしかないと思っていた時期もあり、まさかもう一度スタートラインに立てるとは、 そんなことを振り返り、今からスタートラインに立てると思ったときに、自然と涙があふ れた。泣こうと思ったわけではない。バスの中で音楽を聴きながら、“スタートラインに立 っな”と思ったときに、ごく自然に涙が流れた。 そのレースは勝つつもりで行ったので、はじめから先頭グループ、いえ単独で飛びだし た。15kmくらいで、後ろの集団に飲み込まれた。その時はすごく苦しく、「もうあかん は」と一瞬よぎったが、レース前に、このレースは絶対弱気にならない、強気強気で押し ていくことを決めていた。もうダメだと思ったときにも、そしたら発想を変えて、30k m地点のエッフェル塔をゴールに頑張ろうと思った。42,195kmは、これは持たな いから、エッフェル塔がゴールだと思って、エッフェル塔までこの集団に着いていこうと 思った。20,25kmと距離を踏んでいくうちに、苦しい気持ちが引いていった。楽に なった。30km通過の時点では三人であった。1人が落ちていき、ニ人の争いになった。 ニ人で走っているうちに、``スーッと体が軽くなった。」誰かが背中を押してくれているよ うな感覚になった。それまで走っていた経験の中で、1回しか経験していない感覚。その 時に手紙をもらっていて、「吉田さん私はパリには行けないけれど、皆で吉田さんの背中を 押すから」という手紙をもらっていた。「スーッと体が軽くなった」時にその手紙を思い出 し、これはみんなが押してくれているんだと、走りながら思ったのを覚えている。 スパートしていないにもか変わらず、もう1人の人が脱落してそのままゴールをした。

高妻先生コメント:今の話を聞いて、最後の部分はまさにフロー状態。ゾーンとも言うが。 理想的な心理状態。「火事場のバカ力」。ゾーン、ピークパフォーマンスが出るときの最高 の状態を経験。ゾーンにっいては、研究会でよく話をしたが、陸上選手に多いのは、「誰か が押してくれた。」「神様が引っ張ってくれた。」「地面の上を滑るように走っていた。」 「体に羽が生えたようだ」、という表現が多いが。 たとえば交通事故の時、ほんの1,2秒の出来事なのに、スローモーションのように思 い出せる、人間の防衛本能でもあるが、それも一種のフロー状態。 スポーツ選手が必ず体駿するといわれる。はじめて話を聞いて、まさに、MTの目的。 求めているところにはいっていた。 他には、レース中の強気。イーティングディスオーダー。一種のスランプ。スランプ後 に多くの人が爆発することが多い。スランプは、次に爆発するための心の準備状態だと思 う。スランプに入ったら、ラッキーだと思って欲しい。しかし、ここでやめてしまう人が 多い。一流選手ほど、これを体験している。ほとんど一般の選手はここでやめてしまう。 今日の話のイーティングディスオーダーは、MTで解決できない。ドクター、カウンセ リングによる治療が必要。しかし、MTで、イーティングディスオーダーになる前の段階 で止めることが出きるのではないかと考えている。また、MTでスランプも、なくすこと はできないが、軽くすることはできるというのが定説です。 話を聞いて、いろいろな節目で、メンタル面の刺激があったように思う。最初は、あこ がれ。夢、走りたい(深尾まみ選手、スーパースターに)。プラス思考。夢。心のリフレッ シュ。気持ちの切り替え。開き直り。最終的に強き強気。など話を聞いていて、MTで求 めているものが、吉田さんの話の中に、全部エキスとして詰まっているなと感じた。

質問コーナー
質@:イーティングディスオーダーの時期から復帰まで、2年8ケ月かかり、その間の会 社や、マネージャーに対して最初は罪悪感があったが、どのあたりから感謝の気持ちがで きてきたか?

吉田:恥ずかしながら、本当に感謝をできたのは、ダイハツを辞めてからです。やめては じめていろんなことを振り返り、そして、本当に多くの人に支えられていたことに感謝を した。これはやめてからです。振り返る余裕がなかったし、きっかけがなかった。それよ りも、前に、先に、この記録をどうしようということしか頭にはなかった。

高妻:MTの調査をすればするほど、一流選手は感謝という言葉を使います。感謝の言葉 が出る、考えられるときは、プラス思考。今日いる若い選手が、もし、両親や、先生、監 督などいろいろなところに感謝ができる気持ちの時は、ものすごく伸ぴている。一流選手 の仲間入りです。 不平不満があるときは、伸ぴが止まっている。不平不満は、マイナス思考。感謝する気 持ちを持てるようになったときには、一流選手の仲間入りだと思う。それはデータ、特に オリンピツクのメダリストなどのインタピューなどで明らか。 たとえぱ、たまたま昨日の野球をみていて、ジャイアンツの上原は、感謝とか、打線と か、バックがとか、自分のことよりも周囲のことが多い。彼はプラス思考だと思う。

質A:大学からダイハツに入ったときに、「真っ白になって、ダイハツ色に染まれ」といわ れたが、たとえぱ、指導や、TRに対して疑閥がでたときなどはどうしたか?

吉田:なかなか監督も、思いどうりには動いてはくれない。人数も多くなり、強い選手が、 出れぱでるほど、また、ライバルも多かった。何年かやっているうちに気づいたことがあ る。私は、自分の足元だけを見てやろう。不平不満ぱかりを持っていても、なにも事がす すまない。それよりも、やるべき事をやって、しっかりと監督さんにみてもらおうと思っ た。

高妻:ある種目で2年連続全日本を勝った選手は、MTをやる前は、不平不満ぱかりであ った。MTでプラス思考を学び、監督のことがものすごく嫌いであったが、監督の情熱は わかる。自分たちを勝たそうとしている気持ちは分かる、ということを悟ったときから、 監督の話を聞けるようになった。それまでは、監督の話が全て説教に聞こえた。それがア ドバイスとして聞けて、その時はレギュラーでもなかったのが、全日本で優勝。 今日の話を聞いていて、プラス思考という事をすごく感じるが、ほとんどの選手は、プ ラス思考で、変身を遂げるというか、多くのことがよい方向に向かう。

質B:パリで優勝しようと思ったときは、レース前に人に言いましたか?

吉田:言いました。監督さんにも言いました。話をしたときに決めました。マネージャー にも、全ての人に言いました。

武田:ダイハツの特徴。レース前に、記者会見などで、自分の記録を、順位を宣言する。 MTの手法のひとつ。人に宣言をする。目標設定をして決めたときに言う。

吉田:よく、“言わされているやろ”といわれたが、言わされているのではない。自分も 出したいし、自信もあった。それだけの練習もしてきていた。だから、日本記録は出ます。 2時間24分で走りますというのは、違和感なく言っていた。

高妻:口に出す。セルフトーク。プラスのセルフトーク。何分で走る。優勝するというの は目標設定。いわゆる目標設定したところで走る。それまで練習をしたイメージができる。 イメージトレーニングができる。そして目標に対する道筋が、ぽんやりとでてくる。それ をまたイメージTrを強くすることによって、はっきりとした道筋になる。青写真ができ る。谷口浩美選手は青写真という言葉を使っていが、それができあがってくると、あとは ただそのレールにのるだけなので、あとが楽。宣言をする。ポクサーなども絶対KOで、 倒します、という宣言をする。そうすると、KOで倒すイメージや、KOで倒すためのTr をすることになる。口で宣言する。セルフトークを使うなどは、M Tの理論からすると 理にかなったやり方。

武田:高校生を指導していて、日誌などで宣言をする選手が、MTをしていると増えてく る。読んでいて気持ちいい。感動をする。「今度の大会では、何分、何秒で走りたい。頑張 りたい、どうしたい」ではなく「何分何秒で走り、何位になります」という宣言をする。 そんな強気な日誌が、強い選手の中からでてくる。イメージができているので結果にもつ ながる。

高妻:選手によく言うのは、ホラを吹きなさい、という。どんどん吹きなさい。しかし、 ホラを吹きすぎると、みんなから相手にされなくなるから、ホラを吹いたら、それを実行 するための努力をしなさい。努力をしていれぱ、結果がでなくても、人は認めてくれる。 前向きな気持ちを若い選手は持って欲しい。 もし、宣言できないとしたら、行き当たりぱったりの選手。走ってみないとわからない。 やってみないとわからない。行き当たりぱったりをねらっている。まぐれをねらっている としか考えられない。宣言すると言うことは、どんどんやって欲しい。自分の日誌でもいいから。

質C:今、指導者になって、選手に対して気をつけていることや、言葉遣いなど、自分の 経験を通してなにかありますか?

吉田:気をつけたいと思っていることは、本当は、フィフティー、フィフティーの立場で 話をしたい。それで選手とコミュニケーションをとったり、メニューを組んだり、目標に 向かって取り組んでいきたい。最終的にはそういう間柄で、コーチと選手としてやってい きたい。こちらから一方的に、命令口調で話はしないと自分では心がけている。が、つい つい口数か多くなってしまう。と、自分ではわかっているが…。できるだけ、命令口調で 話をしないということは心がけている。

高妻:指導者はむずかしいが、使ってはいけない言葉、怒ってはいけない、悪い言葉を使 ってはいけない、いくっかのやり方がある。怒ったり、悪い言葉、嫌みなどを言うとそれ がイメージとして残る。コーチが怒るときは何か状況の悪いとき。ミスをしたときなど。 ミス、その時に怒ると、悪いイメージがどんどんインプットされる。残り、強化される。 怒るコーチはへたくそ。いいことを誉めると言いイメージがどんどん残る。誉めるほうが 言いといわれるのは、誉めれぱ誉めるほど、言いイメージが残るし、選手が伸ぴる手伝い をしている。怒れぱ、怒るほど、選手の足を引っ張っている。と考えられる。この考え方 はコーチの人は使って欲しい。 日本は伝統的に、このやりかま、まだまだ行われていない。千尋の谷に我が子を突き落とし這い上がってこい式。這い上がってきた人はいいが、這い上がってこない人が大勢いる。今の日本の指導者の問題。コーチのMT指導法では大切なところ。教えるコーチは下手な指導者。コーチは聞く方がいい。「今何を考えているの?」「何をしようとしているの?」「何をしたらいいと思う?」と聞いてその言葉にアドバイスをした方が下手に教えるよりも、ずっと選手のためになり身についてくる。

以上 


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